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新田柵跡
新田柵は、神亀元年(724)に創建された多賀城を取り巻く天平の5柵(玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵、名称不詳の柵)の一つで天平9年(737)頃に設置された城柵で、平安時代初期の「続日本記」に記載されています。この遺跡は、大崎平野の北東部、田尻地区の丘陵地帯にあり、その規模は東西約1.5㎞、南北約1.7㎞に及ぶ大規模なもので城柵の外郭と考えられています。城柵とは、中央政権が辺境地域に居住する蝦夷を支配して支配地域の拡大することを目的に設置された古代の役所です。
平成2年から、この遺跡の発掘調査が進められてきた結果、土手状の高まりが築地塀や土塁の跡であることが明らかになっています。築地塀は、大崎八幡神社の西側の低地を囲むようにめぐっており、内部に入るための西門や北門の跡も発見されています。
その後の調査では、築地および北門と考えられる柱穴、築地の内側には奈良時代頃の建物跡、竪穴住居跡が見つかりました。そして城柵の南西部を区画する南北方向の材木列や西門跡を2か所で発見し建てかえられたことまでわかりました。門の構造は「八脚門」という格式の高いものでした。西門に接続する築地の痕跡等も確認されています。
また、漆紙文書が出土し、解読の結果、戸籍のような帳簿の断片であることがわかりました。使われた語句に天平宝字元年(757)に施行された養老律令の用語「黄」(3歳以下の子供のこと)があること、漆紙文書が付着した土器が8世紀代のものであることから、8世紀後半の文書とみられています。このような調査成果をふまえて、大嶺・八幡地区に新田柵跡があることは確実視されています。
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