田尻地域のシンボル加護坊山は、隣接の涌谷町との境界線上にあって加護坊旭箟岳(ののだけ)連峰の西突端に位置しており、標高は224mながらもその頂上では遮るものがなく、360度の大パノラマを楽しむことができます。
田尻の「大崎八幡神社」は、仙台の国宝「大崎八幡宮」古川の「八幡神社」岩出山の「八幡神社」の本家にあたり、1000年近い歴史を持っています。神社の境内一帯は、新田柵の跡地と推定され、920年代の延喜式神名帳に記載されている子松神社があった場所と考えられています。
小松寺は980年代の「日本往生極楽記」や1120年代の「今昔物語」の説話集に登場し、その創建は880年代の東夷平定記念や900年初頭の延喜年間の勅願寺に根拠を求めておりました。しかし多賀城(724年)を取り巻く天平の五柵の一つの「新田柵」(737年)が田尻地区に存在することが確実視される現在では、上記の説話集に登場する「新田郡小松寺」は蝦夷との征戦勝利を祈願するために新田柵に付属していた守護寺院でほぼ同時期(740年前後)に創建されたと考えられます。
田尻蕪栗にある恵比須田遺跡は、国の重要文化財に指定された「遮光器土偶」が出土した遺跡として全国的に有名です。この土偶は、昭和18年(1943)遺跡の東端で農民が畑を耕している時にほとんど傷のない状態で発見されました。恵比須田遺跡には、縄文時代のはじめの頃から人が住み始めたと思われますが、縄文時代の終わり頃の土器が数多く出土します。さらに、奈良時代や平安時代の須恵器の破片も採集されることから約8,000年以上の昔からずっと長い間人が住み続けていた宮城県内でも珍しい遺跡です。
新田柵は、神亀元年(724)に創建された多賀城を取り巻く天平の5柵(玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵、名称不詳の柵)の一つで天平9年(737)頃に設置された城柵で、平安時代初期の「続日本記」に記載されています。この遺跡は、大崎平野の北東部、田尻地区の丘陵地帯にあり、その規模は東西約1.5㎞、南北約1.7㎞に及ぶ大規模なもので城柵の外郭と考えられています。城柵とは、中央政権が辺境地域に居住する蝦夷を支配して支配地域の拡大することを目的に設置された古代の役所です。
昭和33年からの開田ブームの最中、木戸北山地区で削られた地中からおびただしい数の瓦片や瓦窯跡が見つかりました。その後の調査で窯跡は計30基確認されており、国指定史跡となっております。窯構造は斜面にトンネル状に穴を掘った地下式窯で、重弁蓮華文軒丸瓦(じゅうべんれんげもん・のきまるがわら)や平瓦などが多数出土しています。
木造千手観音坐像は、明治初期に廃寺となった「小松寺」の本尊と伝わり、中尊寺金色堂に安置される藤原基衡に関わる諸像との類似性が見られることから、平泉の造物に携わった仏師により平安時代末頃(12世半ば)に製作されたと考えられ、平成29年(2017)に国の重要文化財に認定されました。
この古民家は、建築の状況から判断すると250年以上前の江戸時代末期の頃と推定されます。母屋、板倉、長屋倉の3つの建物からなっており、かやぶき屋根の形状から右半分は後に増築されていたことが判ります。昭和の大合併で旧田尻町の誕生を決定づける舞台となった場所としても知られ、東日本大震災により大きく被災しましたが、4年の歳月をかけ復旧しています。
平成30年4月、大崎圏域は「巧みな水管理による水田農業システム」が国連の世界農業遺産に認定されました。居久根(いぐね)農村景観を始め対象となった項目は多岐にわたりますが、その中心となったのが「水田の巧みな水管理の仕組み」でした。
蕪栗沼は、田尻地域の北東部にあります。登米市と栗原市との境界線に位置し、その面積は約100ha程で北上川水系の自然堤防と丘陵地に囲まれた低湿地です。