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​田尻を観る・楽しむ

田尻の観光名所一覧

晴れた日であれば、遠くは太平洋、石巻、仙台まで見通せますし、蕪栗沼はもちろんのこと蔵王連峰や船形連峰、栗駒山、焼石連峰の奥羽山脈、さらに出羽三山の月山までも視野に収まります。

また山頂には天武天皇(673~685)の時代に建立された「三宝加護国家安楽寺寿福円満院」(さんぽうかごこっかあんらくじじゅふくえんまんいん)があったという伝説がありますが、この寺院は平泉藤原氏が支配地を一望でき風光明媚で信仰心が醸成される山頂に極楽浄土を願い仏堂を建立した可能性が高いとされています。

加護坊山自然公園

田尻地域のシンボル加護坊山は、隣接の涌谷町との境界線上にあって加護坊旭箟岳(ののだけ)連峰の西突端に位置しており、標高は224mながらもその頂上では遮るものがなく、360度の大パノラマを楽しむことができます。

大崎神社の起源は二説あります。一つは天喜5年(1057)の前九年の戦いで、陸奥国守の源頼義・義家父子が、蝦夷軍征伐のため出陣しましたが、抵抗が激しく人も馬も疲れ果てたのでこの地に引き返した時に八幡神(応神天皇)が夢枕に立ち、また、こんこんと湧きだす清水にも助けられ、大勝利に終わったと伝えられています。その凱旋途中に石清水八幡を祀って武具を奉納したのが始まりとされています。
 
もう一つは、封内風土記などにある大永7年(1527)の説で、葛西家から大崎家に嫁いだ辰巳御前が、岩手・胆沢郡にある八幡宮を、大崎氏の居城・小野御所の辰巳方位(南東)にある遠田郡八幡村に祀ったという説です。
 
奥州探題の大崎氏は、先祖の源義家が建てた八幡神社を厚く敬い、康安元年(1361)大崎5郡の総鎮守として社殿を再興したと伝わり大崎八幡と称されるようになりました。
 
田尻の大崎八幡神社は、後に伊達家によって元の場所に再建され、多くの信仰を集め明治5年に郷社(神社の格式)になりました。現在の社殿は平成4年10月に建てられたものです。
 
また、参道には老杉があり、根元の形が、馬のお尻と後ろ足、そして尻尾の形までそっくりなので馬形杉( うまっこすぎ)と呼ばれているご神木で市の天然記念物に指定されています。

大崎八幡神社

田尻の「大崎八幡神社」は、仙台の国宝「大崎八幡宮」古川の「八幡神社」岩出山の「八幡神社」の本家にあたり、1000年近い歴史を持っています。神社の境内一帯は、新田柵の跡地と推定され、920年代の延喜式神名帳に記載されている子松神社があった場所と考えられています。

小松寺は980年代の「日本往生極楽記」や1120年代の「今昔物語」の説話集に登場し、その創建は880年代の東夷平定記念や900年初頭の延喜年間の勅願寺に根拠を求めておりました。しかし多賀城(724年)を取り巻く天平の五柵の一つの「新田柵」(737年)が田尻地区に存在することが確実視される現在では、上記の説話集に登場する「新田郡小松寺」は蝦夷との征戦勝利を祈願するために新田柵に付属していた守護寺院でほぼ同時期(740年前後)に創建されたと考えられます。

時代が下がり、岩手奥六郡の俘囚長の安倍氏の勢力圏が岩手南部、宮城北部まで及ぶに至って多賀国府軍との前九年の役(1051~1062)の戦いが始まりますが、最後は安倍氏が敗れ賊軍として滅亡します。安部氏は平泉黄金文化を築いた藤原清衡の母方ですが、朝廷に謀反を起こした賊軍であり墓もない状態でした。

小松寺は安倍氏の一族が住職をしていたと推定され、藤原清衡あるいは基衡が菩提寺的に小松寺を再興して木造千手観音坐像を安置した可能性があります。

源頼朝が1189年に藤原氏を滅亡させた後はこの地を所領した畠山氏、大掾氏、その後は大崎氏に庇護されたと考えられます。大崎氏3代詮持が1370年頃に小松寺の対岸、大崎沼を挟んだ小野に居城を築城したときに祈願時として再興されています。

大崎氏が1590年豊臣秀吉に所領を没収された後は仙台藩2代忠宗が1641年に再興しましたが明治になり廃藩置県で寺禄が無くなり廃寺となっています。忠宗は隣に薬師堂も建立しており小松寺廃寺後、千手観音坐像は薬師堂に移されましたが老朽化で薬師堂も建替えられ、昭和7年(1932)に作られた観音堂に移されています。

小松寺・薬師神社

小松寺は980年代の「日本往生極楽記」や1120年代の「今昔物語」の説話集に登場し、その創建は880年代の東夷平定記念や900年初頭の延喜年間の勅願寺に根拠を求めておりました。しかし多賀城(724年)を取り巻く天平の五柵の一つの「新田柵」(737年)が田尻地区に存在することが確実視される現在では、上記の説話集に登場する「新田郡小松寺」は蝦夷との征戦勝利を祈願するために新田柵に付属していた守護寺院でほぼ同時期(740年前後)に創建されたと考えられます。

土偶は、縄文時代の後・晩期に最も発達し,似たような決まった様式で形作られ、かなり芸術性の高いものが見られるようになりました。この土偶は特に目に特徴があり、北方民族のイヌイットが雪中の光除けに着用した「遮光器」によく似ていることから「遮光器土偶」と呼ばれ,東北地方の縄文晩期に作られた土偶の特色となっています。

土偶がなぜ作られたかはよく判りませんが、完全な状態で発見されることは稀です。足や腕などの一部が切断された状態のものが多く見られることから、多産や豊穣の他、病気治癒などの祈願のためにあえて壊されたのではないかとも言われます。現在、土偶の本体は東京国立博物館で展示されており、精巧なレプリカ(模型)が田尻総合支所内等に展示してあります。

また、この遺跡から見つかった縄文時代初期の土器には、貝殻で表面をこすった跡のあるものや草の繊維を混ぜて焼いたものもあります。中期の土器には、竹で模様をつけたり、渦巻き模様や表面を滑らかにしたりするなどの特徴が見られます。

後期になると茶碗型や注ぎ口のある注口型などの特徴が現れ、終期の頃には亀ヶ岡式土器という薄く細かな模様に変わっていき、この頃に遮光器土偶が作られたと思われます。その他、土器の他に石棒、矢じり、石皿、石さじ、石おの、耳飾り、小型の土偶などほかの遺跡では見られないほどたくさんの出土物が見つかっています。

恵比須田遺跡

田尻蕪栗にある恵比須田遺跡は、国の重要文化財に指定された「遮光器土偶」が出土した遺跡として全国的に有名です。この土偶は、昭和18年(1943)遺跡の東端で農民が畑を耕している時にほとんど傷のない状態で発見されました。恵比須田遺跡には、縄文時代のはじめの頃から人が住み始めたと思われますが、縄文時代の終わり頃の土器が数多く出土します。さらに、奈良時代や平安時代の須恵器の破片も採集されることから約8,000年以上の昔からずっと長い間人が住み続けていた宮城県内でも珍しい遺跡です。

平成2年から、この遺跡の発掘調査が進められてきた結果、土手状の高まりが築地塀や土塁の跡であることが明らかになっています。築地塀は、大崎八幡神社の西側の低地を囲むようにめぐっており、内部に入るための西門や北門の跡も発見されています。

その後の調査では、築地および北門と考えられる柱穴、築地の内側には奈良時代頃の建物跡、竪穴住居跡が見つかりました。そして城柵の南西部を区画する南北方向の材木列や西門跡を2か所で発見し建てかえられたことまでわかりました。門の構造は「八脚門」という格式の高いものでした。西門に接続する築地の痕跡等も確認されています。

また、漆紙文書が出土し、解読の結果、戸籍のような帳簿の断片であることがわかりました。使われた語句に天平宝字元年(757)に施行された養老律令の用語「黄」(3歳以下の子供のこと)があること、漆紙文書が付着した土器が8世紀代のものであることから、8世紀後半の文書とみられています。このような調査成果をふまえて、大嶺・八幡地区に新田柵跡があることは確実視されています。

新田柵跡

新田柵は、神亀元年(724)に創建された多賀城を取り巻く天平の5柵(玉造柵、色麻柵、新田柵、牡鹿柵、名称不詳の柵)の一つで天平9年(737)頃に設置された城柵で、平安時代初期の「続日本記」に記載されています。この遺跡は、大崎平野の北東部、田尻地区の丘陵地帯にあり、その規模は東西約1.5㎞、南北約1.7㎞に及ぶ大規模なもので城柵の外郭と考えられています。城柵とは、中央政権が辺境地域に居住する蝦夷を支配して支配地域の拡大することを目的に設置された古代の役所です。

木戸瓦窯跡は8世紀前半に陸奥国の政庁である多賀城などの屋根瓦等を生産した窯跡で、当初は多賀城や玉造柵の造営のために必要な窯かと考えられていましたが、瓦・破片が大崎八幡神社周辺や小松寺跡からも出土していました。

通常、神社は瓦を使わず瓦は官衙(役所)や寺院に使用されるので、この当時の寺院であれば官寺であり、多賀城と多賀城廃寺の例などから、所在が不明であった新田柵が田尻八幡・大嶺地区にあるのではないかとの結論に至りました。それから約30年後に発掘が始まり、現在この地区に新田柵が存在したことが確実視されています。

さらに、昭和34年(1959)に文字の書かれた平瓦が発見されました。これは「郷里制名箆書瓦(ごうりせいなへらがきがわら)」と呼ばれ、多賀城創建時の奈良時代の郷里制や軍団制を表す記述があり、律令体制が田尻地方まで及んでいたことを示す極めて貴重なもので、東北大考古学研究室に所蔵されています。その瓦には「〇〇郡仲村郷他辺里長二百長丈部呰人」(〇〇ぐん・なかむらごう・おさべのりちょう・にひゃくちょう・はせつかべあざひと)と刻字され〇〇の部分は「新田」と考えられています。仲村郷・他辺里長・二百長・丈部呰人の文字は郷里制を示しており、この制度は奈良時代の初期25年間(715~740)しか通用しなかったもので、この瓦が造られた年代が判ります。丈部呰人なる人物ですが、この里長 (村長 )で200人の兵隊を指揮する将校であり、その勤務先は、新田郡にあった新田柵と考えられています。

木戸瓦窯跡

昭和33年からの開田ブームの最中、木戸北山地区で削られた地中からおびただしい数の瓦片や瓦窯跡が見つかりました。その後の調査で窯跡は計30基確認されており、国指定史跡となっております。窯構造は斜面にトンネル状に穴を掘った地下式窯で、重弁蓮華文軒丸瓦(じゅうべんれんげもん・のきまるがわら)や平瓦などが多数出土しています。

木造千手観音坐像は、明治初期に廃寺となった「小松寺」の本尊と伝わり、中尊寺金色堂に安置される藤原基衡に関わる諸像との類似性が見られることから、平泉の造物に携わった仏師により平安時代末頃(12世半ば)に製作されたと考えられ、平成29年(2017)に国の重要文化財に認定されました。

この坐像と脇侍で附(つけたり)指定された不動明王立像と毘沙門天立像の3体が田尻総合支所の収蔵庫に安置され公開されております。十一面千手観音とは多面の顔の多くの目で困っている人たちを見逃さず、千もある無限の手を差し伸べて救うという観音で、像髙92cm,台座と光背を入れると2.5mほどの高さがあり、脇侍はこの観音を守る武人です。

顔は本面と頭部に2段配置で5面ずつ11面あり、腕数は42本ですが合掌する手だけは体とのバランスを揃えていますが他の全脇手は小ぶりです。材料はカツラ材で頭体幹部は真ん中で2材を合わせて、布を張った上に漆を塗り金箔を押しています。

正面から見ると頭から膝まで2等辺3角形に収めてあるため安定感があり、力まずゆったりと座り、細身でなで肩の姿です。唐代に先例をみる二重まぶたや舌状に垂れる後頭部の頭髪は国内では稀です。また両踵を隠す表現もこの時代の菩薩坐像には珍しいものです。 

本像は、小松寺とお薬師様の観音堂で地元の「お薬師様文化財保存会」によって見守り、伝えられてきました。県の有形文化財に指定されていましたが、平成23年(2011)3月の東日本大震災で大きく被災し、京都の「美術院国宝修理所」で修理する過程で文化財としての価値を見出され、平成29年(2017)9月に国の重要文化財に指定されました。

そのことから大崎市が管理団体となり、地元の手を離れて適切な管理を行うために令和2年
(2020)10月より田尻総合支所内に設置された収蔵庫に保存され一般公開されています。(観覧は無料。年末年始と内部検査のために月曜日は非公開。ただし月曜日が祝日の場合は公開され、火曜日が非公開となります。)

木造千手観音坐像

木造千手観音坐像は、明治初期に廃寺となった「小松寺」の本尊と伝わり、中尊寺金色堂に安置される藤原基衡に関わる諸像との類似性が見られることから、平泉の造物に携わった仏師により平安時代末頃(12世半ば)に製作されたと考えられ、平成29年(2017)に国の重要文化財に認定されました。

現地名から通称「桜田屋敷」と呼ばれ、庭には樹齢300年以上と推定されるサルスベリや糸ヒバなどの古木の他、桜や梅などが植えられて豊かな緑に囲まれ閑静なたたずまいとなっています。

今では、大貫地域における観光資源の一つとして位置付けられ、令和元年には地元のボランティアの協力で約2kmの「桜田屋敷郷山散策路」が開発整備され、第三駐車場を経由し約0.6kmある既設の「木もれ陽の森コース」を歩いて森林浴をしながら加護坊山の頂上までゆったりと行くことができます。

カタクリ、桜、ヤマユリなど四季折々の草花が歩く人を癒してくれます。展示会などの各種イベントや食事処での郷土料理や手打ちそばも楽しめます。
桜田屋敷内の食事処「咲楽亭」は、4月~11月の間に営業しています。

桜田屋敷

この古民家は、建築の状況から判断すると250年以上前の江戸時代末期の頃と推定されます。母屋、板倉、長屋倉の3つの建物からなっており、かやぶき屋根の形状から右半分は後に増築されていたことが判ります。昭和の大合併で旧田尻町の誕生を決定づける舞台となった場所としても知られ、東日本大震災により大きく被災しましたが、4年の歳月をかけ復旧しています。

田尻地区には現在、美田がくまなく広がっていますが、江戸時代の初期(およそ400年前)
とは大部様子が違っていたようです。小松地区から貝ノ堀地区にかけての丘陵地帯のふもとは千枝湖(大崎沼)、八幡沼、木戸沼、三高野沼など大きな湖や沼が連なる湿地帯で稲作が出来る部分は限られていました。ここに隧道・潜穴や用水路を開くことで大規模に干拓して現在のような水田の姿が整えられたというのです。

萱刈潜穴は、小松地区の北端を入り口、東側の萱刈川河口を出口とした全長1121mと非常に長いものです。その工事規模は全国的な潜穴の中でも大きいもので、工事期間は寛永年間(1624~1645)(一説には元禄3年(1690))とされ、最も早い時期となっています。
まず千枝湖の水を排水するために萱刈潜穴が掘削され、同時期に化女沼と千枝湖の間に3か所の隧道を掘削したことによって化女沼を水源とし蕪栗沼を遊水地として大崎北東部一帯が水路でつながれたのです。

干拓と共に田尻川から水を引くために掘削された水路がありますが、その工事を指導したのは大崎地域で仙台藩の郡司(役人)を務めた佐賀房供という人物です。彼は、寛永12年(1635)、三高野村に居住して13年をかけてこの地域の干拓に尽力し130町歩もの新田を開発しました。地元の有力者たちは、その功績を讃えて明治27年に大きな「佐賀房供遺徳碑」を建て、さらに昭和29(1954)年には「佐賀神社」を建立し毎年祭礼を行っています。

潜穴・隧道の工事方法

当時の工事は、簡素な道具と人力に頼るしかありませんでした。また、起伏に富む丘陵地帯で適切な勾配や方角を算出するのは容易なことではなかったはずです。これについては、当時「南蛮流」と言われた西洋式の測量術が行われたようです。小松地区には「西洋人が潜穴工事の測量をした」「キリシタン武士の後藤寿庵が隧道を設計した」という伝承が残されています。

掘削工事は、初めに数100m間隔でずり出し穴(「ずり」=坑道から排出される土砂)という縦穴を堀り、その後にこの縦穴の底を横に掘り進めて連結するという工法がとられました。ずり出し穴は、土砂の排出やメンテナンスにも利用され、萱刈潜穴には現在でも5本のずり出し穴跡が残っています。

田尻の潜穴・隧道

平成30年4月、大崎圏域は「巧みな水管理による水田農業システム」が国連の世界農業遺
産に認定されました。居久根(いぐね)農村景観を始め対象となった項目は多岐にわたりますが、その中心となったのが「水田の巧みな水管理の仕組み」でした。

洪水時には水量を調節する遊水地となっており、人が立ち入りできないため田尻地域では唯一干拓されずに残された所です。その結果、東日本の中でも大変に貴重な自然環境が残されている湿地となりました。

そのため、多くの冬の渡り鳥の越冬地として知られ、特に9月下旬から飛来するマガンは10万羽を超えるほどで、その数は世界一とさえ言われています。2月下旬まで塒(ねぐら)として越冬します。

地元では、マガンの保護に対する認識が高まり、平成9年(1997)には隣接の干拓地、白鳥地区の田んぼ約50haが沼に復元され総面積が広げられました。

平成17年(2005)には、地域の努力が実って「蕪栗沼とその周辺水田」は、湿地保全の国際条約「ラムサール条約」の正式な登録湿地となり、県内外から多くのバードウォッチャーが訪れます。

周辺の水田では、冬の間に田畑に水を張る「ふゆみずたんぼ」(冬期湛水)を実施し、ガン類のねぐらを分散する取り組みを行っており、これにより農地と湿地の両機能を併せ持つ「農業湿地」という新しい価値観が広まりつつあります。 

また、現在までに鳥類219種、魚類33種、貝類10種で絶滅危惧種の植物は5種が確認されています。

10万羽を超えるマガンの早朝の「飛び立ち」では、地響きのような轟音を立てて一斉に舞い上がります。周辺の水田の上空を覆いつくす様子は、見る誰しもを圧倒する光景です。
なお、近隣にはラムサール条約登録地として化女沼や伊豆沼もあります。

蕪栗沼

蕪栗沼は、田尻地域の北東部にあります。登米市と栗原市との境界線に位置し、その面積は約100ha程で北上川水系の自然堤防と丘陵地に囲まれた低湿地です。

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