田尻の潜穴・隧道
平成30年4月、大崎圏域は「巧みな水管理による水田農業システム」が国連の世界農業遺
産に認定されました。居久根(いぐね)農村景観を始め対象となった項目は多岐にわたりますが、その中心となったのが「水田の巧みな水管理の仕組み」でした。
田尻地区には現在、美田がくまなく広がっていますが、江戸時代の初期(およそ400年前)
とは大部様子が違っていたようです。小松地区から貝ノ堀地区にかけての丘陵地帯のふもとは千枝湖(大崎沼)、八幡沼、木戸沼、三高野沼など大きな湖や沼が連なる湿地帯で稲作が出来る部分は限られていました。ここに隧道・潜穴や用水路を開くことで大規模に干拓して現在のような水田の姿が整えられたというのです。
萱刈潜穴は、小松地区の北端を入り口、東側の萱刈川河口を出口とした全長1121mと非常に長いものです。その工事規模は全国的な潜穴の中でも大きいもので、工事期間は寛永年間(1624~1645)(一説には元禄3年(1690))とされ、最も早い時期となっています。
まず千枝湖の水を排水するために萱刈潜穴が掘削され、同時期に化女沼と千枝湖の間に3か所の隧道を掘削したことによって化女沼を水源とし蕪栗沼を遊水地として大崎北東部一帯が水路でつながれたのです。
干拓と共に田尻川から水を引くために掘削された水路がありますが、その工事を指導したのは大崎地域で仙台藩の郡司(役人)を務めた佐賀房供という人物です。彼は、寛永12年(1635)、三高野村に居住して13年をかけてこの地域の干拓に尽力し130町歩もの新田を開発しました。地元の有力者たちは、その功績を讃えて明治27年に大きな「佐賀房供遺徳碑」を建て、さらに昭和29(1954)年には「佐賀神社」を建立し毎年祭礼を行っています。
潜穴・隧道の工事方法
当時の工事は、簡素な道具と人力に頼るしかありませんでした。また、起伏に富む丘陵地帯で適切な勾配や方角を算出するのは容易なことではなかったはずです。これについては、当時「南蛮流」と言われた西洋式の測量術が行われたようです。小松地区には「西洋人が潜穴工事の測量をした」「キリシタン武士の後藤寿庵が隧道を設計した」という伝承が残されています。
掘削工事は、初めに数100m間隔でずり出し穴(「ずり」=坑道から排出される土砂)という縦穴を堀り、その後にこの縦穴の底を横に掘り進めて連結するという工法がとられました。ずり出し穴は、土砂の排出やメンテナンスにも利用され、萱刈潜穴には現在でも5本のずり出し穴跡が残っています。