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木戸瓦窯跡

昭和33年からの開田ブームの最中、木戸北山地区で削られた地中からおびただしい数の瓦片や瓦窯跡が見つかりました。その後の調査で窯跡は計30基確認されており、国指定史跡となっております。窯構造は斜面にトンネル状に穴を掘った地下式窯で、重弁蓮華文軒丸瓦(じゅうべんれんげもん・のきまるがわら)や平瓦などが多数出土しています。

木戸瓦窯跡は8世紀前半に陸奥国の政庁である多賀城などの屋根瓦等を生産した窯跡で、当初は多賀城や玉造柵の造営のために必要な窯かと考えられていましたが、瓦・破片が大崎八幡神社周辺や小松寺跡からも出土していました。

通常、神社は瓦を使わず瓦は官衙(役所)や寺院に使用されるので、この当時の寺院であれば官寺であり、多賀城と多賀城廃寺の例などから、所在が不明であった新田柵が田尻八幡・大嶺地区にあるのではないかとの結論に至りました。それから約30年後に発掘が始まり、現在この地区に新田柵が存在したことが確実視されています。

さらに、昭和34年(1959)に文字の書かれた平瓦が発見されました。これは「郷里制名箆書瓦(ごうりせいなへらがきがわら)」と呼ばれ、多賀城創建時の奈良時代の郷里制や軍団制を表す記述があり、律令体制が田尻地方まで及んでいたことを示す極めて貴重なもので、東北大考古学研究室に所蔵されています。その瓦には「〇〇郡仲村郷他辺里長二百長丈部呰人」(〇〇ぐん・なかむらごう・おさべのりちょう・にひゃくちょう・はせつかべあざひと)と刻字され〇〇の部分は「新田」と考えられています。仲村郷・他辺里長・二百長・丈部呰人の文字は郷里制を示しており、この制度は奈良時代の初期25年間(715~740)しか通用しなかったもので、この瓦が造られた年代が判ります。丈部呰人なる人物ですが、この里長 (村長 )で200人の兵隊を指揮する将校であり、その勤務先は、新田郡にあった新田柵と考えられています。

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